上書き


 プロローグ

 夏の到来を受け、蝉が「待ってました」と言わんばかりに、こぞって自己主張するが如く羽で音を鳴らしている。
 その感慨深い不協和音に包まれる何の変哲もない通学路を、帰路につく為に沢崎さわざき誠人まこと城井しろい加奈かなは歩いている。
「誠人くん、あたしいつも思ってたんだけど」
「何だ?」
「誠人くんの隣にいると、こっちまで暑くなるような錯覚に陥るの」
「何が言いたいんだ?」
「何度も言うようだけどその黒い上着は無駄に熱を吸収してるから、脱いだ方が得策なんじゃないかな」
「そこまで暑くないだろ。それに加奈、俺はこれでも優等生を目指してるんだ。優等生はどんなに暑かろうとも制服は脱がないんだよ。それが”相手に礼を尽くす”ってやつなのさ」
 誠人は視線を泳がせながら、小学生の学芸会レベルの聞いている方が恥ずかしくなってくる台詞の棒読みをした。その言葉は、加奈がそのことについて訊いてきた時の為に事前に用意し練習していた台詞だから、慣れてしまって感情を込められなかったのは仕方がない。
 問題はそこではなく、誠人が予期していた加奈からの質問――上着についてのことだ。
 加奈に指摘された通り、誠人はカナヅチでも我先にと水の中に飛び込みたくなるような猛暑の日々を、黒い学ランを着て過ごしているのだ。断っておくが、彼の通っている高校に『夏でも上着着用』などという理不尽且つ無意味な校則はない。そんな校則あっても守る生徒がいるかは置いておくとして、つまり彼は純然たる自らの意志で冬の水風呂に匹敵する苦行を課しているのだ。かといって彼に悟りを開こうなどという意志や自虐的な趣味がある訳ではない。

 ――そこには、ある理由が存在するのだ。

「誠人くんが優等生ねぇ……」
「その意味深な沈黙と目はどういうつもりだ?」
 誠人は露骨に「無理でしょ」と訴えかけている加奈の視線を受けて、軽く彼女の柔らかい頬をつねる。抓られたまま奇声を上げている彼女の小動物のような様子を一頻ひとしきり楽しんだ後、彼はムチムチとした頬の感触を名残惜しく思いながら手を離した。
「と、とにかく! あたしは誠人くんが無理してないならそれでいいの。でも少しでも暑いって思ったらすぐ脱ぐんだよ? 熱中症にでもあったら大変だからね。一寸先は闇、油断してると何が起こるかわからないんだよ」
 つい数時間前そのことを痛感させられたなと頭を抱えたくなる衝動を抑え、誠人は自分より頭一個分は低い位置にある加奈の腰まで垂れ下がっている長い黒髪を撫でる。えへへと邪気のない幼い笑顔で含羞はにかむ彼女を見て、自分の言ったことを信じたのだなと一安心する。
 実のところ、おどけた態度を取っていたが、誠人は心中ではかなり緊張していた。彼の本音を代弁するように常に額から流れ落ちている汗に気付かれないか危惧していたが、加奈の疑念の欠片もない向日葵ひまわりのような満面の笑顔を見てそれはいらぬ心配だったと理解した。
 今はそのことは忘れよう、そう誠人は奮起する。
「コンビニでも寄って行こう」
 誠人の言葉を受け、加奈は彼の一般男子並には逞しく見える腕に自分のそれを絡める。そんな仕草の一つ一つが、彼にとっては堪らないほど愛しく思えた。若干大きめの制服から伸びる細く弱々しい手足、少し動く度に漂う髪の匂い、そして何よりその笑顔が彼は好きなのだ。
 誠人は思った、――この幸せがいつまでも続いて欲しいと。



 いつも通り談笑しながら同じ道を進み、誠人と加奈はそれぞれの家に到着する。二人の家は隣接している為、どちらかに用事でもない限り帰るのは同じ時になる。
「それじゃあね、誠人くん! また明日!」
 喜色満面な表情を投げかけながら名残惜しそうに何度も元気良く手を振る加奈を見て、帰ってもすぐにメールがくるんだと思いつつ誠人はその小さい姿をできる限りの笑顔で見送った。
 加奈が家に入ったことを確認すると、誠人は安堵の息を漏らした。念の為右左右を確認してから信号を渡る小学生のように彼女の家のドアを凝視した後、彼もようやく自分の家のドアを開ける。
 誠人はドアに鍵をかけると、すぐさま制服の上着を脱いだ。
「暑かったなぁ……」
 脱いだことによって、一日中開きっぱなしの汗腺から垂れ流しになって肌と制服を接着させていた汗のベタベタ感から開放され、そしてリビングの辺りから自分がいる玄関にまで僅かに流れ込んでくるクーラーの冷気に至福を感じる。砂漠で脱水症状が現在進行形の時にオアシスを見つけた時の気持ちを再認識すると共に、その冷気が誠人の右腕にあるほんの少しのかすり傷をひんやりと冷やした。それは誰が見ても大したことがないとわかる小さな傷である。しかし、それが持ち合わせる重大性は彼だけが知っている。この傷は――というよりも『傷』は――、一歩間違えれば冗談でも脚色でもなく命取りになりかねない、デリケートな小型爆弾なのだ。
 それを見つめながら、誠人は呟く。
「何とか”バレずに”済んだな……」



 沢崎誠人と城井加奈――この二人の関係は、幼馴染というものだ。
 家が隣接しているという理由から近所付き合いが頻繁で、互いの母親の仲も非常に良く、その影響で誠人と加奈はいつも一緒にいた。小さい頃に自然に生じる男女の趣味の違いという壁も、互いのことを理解し尊重することを自然に覚えていた二人には関係なかった。同じ年で、幼稚園から中学、そして高校も同じところを受け見事に受かっており、産まれてから二人は片時も離れたことがないと言っても過言ではない深い関係になっている。当然仲も良く、喧嘩もほとんどしたことがなかった。
 更にもう一つ誠人と加奈の関係を強固なものにした要因は、”二人が付き合っている”という事実だ。
 小学二年生の頃、加奈の強いアプローチに誠人が承諾したのだ。勿論幼さ故の純粋さから彼女は彼に愛を囁けたのだし、逆に彼も彼女からの愛を受け止めたのだ。小さい頃に将来のことも何も考えず、ただ突発的に結婚の約束をするのと同レベルの話だ。しかし、二人の愛が真実である。彼女の方は相変わらず彼を愛し続けているし、彼も年を重ねる毎に徐々に湧いてくる恋愛感情を自覚していった。だからこそ、二人は今でも付き合い続けられているのだ。
 付き合いといっても友達とすることは変わらない、悪い言い方をすれば名前だけの関係だ。それで誠人はいいと思っている。特別なものを望まず、互いに気を遣い合うことのない気軽な関係に彼は居心地の良さを感じていた。彼自身、加奈のことは好きだからこの付き合いがそのまま続いて欲しいと心から願っている。
 しかし、誠人は一つだけこの付き合いに不安を感じている。本来ならばむしろ喜ぶべきことなのだが、”過ぎたるは及ばざるが如し”というように、大き過ぎる想いは逆に彼の首を絞める結果となっている。

 誠人の懸案事項、それは――加奈の屈折した独占欲である。

 遡ること数年、二人が小学三年生の時――



 その日は、少しだけいつもとは違っていた。
「誠人くん!? どうしたのその怪我!」
「喧嘩しただけだよ……」
 誠人がクラスメートと喧嘩をしたのだ。普段から穏健な誠人が乱暴を働いたという事実は勿論のこと、その見事なまでのやられっぷりに加奈はただ驚いた。小学生同士の喧嘩なのだから病院に厄介になるような外傷はない。しかし、彼女の目には体のあらゆる部位に刻まれている傷の数々は生々しく映った。
(誠人くんの体に傷が……。傷が……他の人が誠人くんを傷付けた……汚した証が……!)
 加奈にとって『傷』とは、他者が”自分の”誠人に触れ、傷付け、汚した跡なのだ。
 自分の彼氏――つまり自分のものであるはずの誠人を他者が図々しくも蹂躙した、忌むべき対象なのだ。
「こんなに……! 早く保健室に」
「嫌だよ! 負けたなんて知られたくない! こんな傷すぐ治るよ」
 決定打となった誠人からの初めての拒絶。小さいながらも自尊心を保守する為の彼の行動は、加奈に衝撃を与えた。
(確かに傷は治るよ。でも治るまでの間、あたしは誠人くんが他の人に汚された証を見続けなきゃいけないの……?)

 そして、加奈の中で何かが崩壊した。

「そんなの嫌だっ!!」
 加奈の声が木霊こだましたのも束の間、彼女は俯いている誠人を地面へと押し倒す。光彩を失った瞳が静かな威圧感と共に彼を見下ろす。
 その瞳に恐怖を覚えたかのように肩を震わす誠人をよそに、加奈はおもむろに誠人の頬に残っている掠り傷に自らの爪を添えた。そのまま、爪を立て掠り傷を引っ掻き始める。
「痛ッ! 何するんだよ加奈!?」
 誠人の言葉も今の加奈の耳には入らない。ただ、一つの使命を遂行することにだけ全身全霊の力を注ぐ。
 元々赤く血が滲んでいた傷口を縦横無尽に加奈の爪がえぐり、みるみる内に彼女の爪は赤く染め上げられていく。
 恍惚の表情で傷を蹂躙する加奈に対し、傷を抉られていることによる激痛に誠人は表情を歪ませた。ひたすら痛みを悲鳴で和らげようとする痛々しい努力をするのみだった。
「やめてよ! 痛いよ……! やめて! やめて!!」
 誠人の悲痛な叫び声が虚しく空気を震わせる。
「大丈夫……大丈夫だよ? もう少しの辛抱だから……。もう少しで、その汚い傷を『上書き』してあげるからっ!」
 加奈が自らに課した使命――それは、誠人の傷を『上書き』するというものである。
 他者の介入を許した証を残すくらいなら、その介入した主体となる人物を自分に置き換えようと加奈は考えたのだ。他者は駄目だが、誠人の彼女である”自分ならば”許せる。彼が他者に傷付けられた痕跡を残すくらいなら、その痕跡は自分が付けたということにする――『上書き』してしまおうと思ったのだ。
「加奈ァあああ!!」



  ――

「『上書き』か……」
 自室へと入った誠人は、敷かれたままの布団に寝転がりながらふと呟く。
 あの日――加奈が初めて誠人に『上書き』した日――以来、誠人は怪我を負う度に加奈の手によって『上書き』されている。その行動は常軌を逸しており、彼自身の過失によって負ってしまった怪我ですらその対象に入っている。
 つまり、加奈は誠人の汚れをぎ落とす意識が先行して、当初の”他者に傷付けられた跡を消す”という目的を見失ってしまっているのだ。それは、加奈の独占欲が方向性を間違えている証拠だと言える。無論、彼も身を以ってそのことを理解している。
 そんな歪んだ独占欲を持った人と付き合うなどというのは普通の者ならば御免こうむるはずである。
 しかし、誠人は加奈と付き合い続けている。
 その理由は至極簡単――誠人が加奈を好きでいるからだ。
 誠人自身は確かに『上書き』してくる時の加奈に恐怖を覚えている。されている時にどうしようもない悲壮感に駆られてもいる。それでも彼は、『上書き』し終えた後、必死に謝って許しを請う彼女を愛しく思ってしまうのだ。彼女が『上書き』してくるのは、自分のことを愛しているが故だと分かっているからこそ、憎むことができないのだ。
 だから誠人は、自分が努力しようと決意した。怪我をしない為に季節を問わず長袖長ズボンの服で生活をするのもその一つだ。
 全ては、加奈と付き合い続ける為なのである。
「”惚れた方が負け”ってか……」
 自嘲するように呟いた後、誠人は体を起こし着信音の鳴っている携帯電話を取る。加奈からの多くの絵文字で彩られた可愛らしいメールにどんな返信をしようかなと考えている内、無意識の内に一言漏れた。
「このままでいいのかな……」










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